前回の続きです。
1995年4月、誘われてレクロイジャパン株式会社に入社。アルバイト先に居続けても良かったのだが、震災直後で人を雇う余裕が無かったようだ。レクロイジャパン株式会社では、大阪オフィスでサービス担当だったが、1997年に転機が訪れた。レクロイ本社が岩崎通信機と共同でデジタル・オシロスコープを開発することを決定。レクロイ本社と岩崎通信機の技術部隊の間に入って、コーディネーター的な仕事(『リエゾン』と言うらしい)をすることになった。選ばれた理由は、デジタル・オシロスコープの技術的な内容が理解でき、かつ英語がそれなりにしゃべれるということだった。
1997年7月から10月までの三ヶ月間アメリカ・ニューヨーク州で生活をした。
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ホテル暮らしだったけれど、当然ながら毎日英語しかしゃべれない。夕食をとるにも一苦労。会社の会議の席では、緊張で、皆が何を言っているか全く理解できない。そういう時に限って発言を求められ、しどろもどろになって大恥をかいたりもした。でも、エンジニアはエンジニア。回路図を書いて説明すれば多少英語がおかしくても理解し合える。そんなこんなでアメリカ人の友人もでき、週末は友人の家に遊びに行ってはビールを飲んでいろんな話をした。ビールも重要なコミュニケーションの手段になることを知ったのもこの時だ。ビール好きはどの国にも居る。ビールを飲めば恥ずかしさも消え、饒舌になる。ブロークンな英語であろうと身振り手振りでコミュニケーションが取れる。ビール好きで良かったと思った瞬間であった。
10月に帰国すると東京転勤を命ぜられ、岩崎通信機の近所にアパートを借りた。なんとも皮肉なことに、辞めた会社にほとんど毎日通うはめになった。夜アパートに帰ると、アメリカの上司から電話がかかってきてこれまた英語で苦労の連続。日本に帰っても英語漬けの毎日が続いた。その後もアメリカ・日本の間を往復。パスポートがハンコだらけになった1999年1月、レクロイ・岩通共同開発のオシロスコープが発表された。直接設計をしたわけでは無いけれど、我が子のようにいとおしかった。発売と同時にヨーロッパを中心に爆発的に売れ、アメリカの雑誌で「Best in Test」という賞を受賞した。このデジタル・オシロスコープは新たなライン・アップを加え2001年1月にリニューアルして、今でもレクロイの主力製品の一群を担っている。
To be continued…
